|
シンプソンは、自分が献身して作り上げたニューヨーク・ゴスペル・タバ
ナクルで、三十年間奉仕した。その長い牧会生活中に、彼の最大の働きがそ
こで成し遂げられたのである。タバナクルに隣接した所に「本部」と呼ばれ
た建物があったが、クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンス
の実際の本部は、タバナクルの説教壇の上であった。そこにおいて、宣教師
兼牧師は、四分の一世紀以上の長きにわたって、その力強い説教を注ぎ出し
たのである。
シンプソンのゴスペル・タバナクルは、その大きさから言っても、外見か
ら言っても、世界伝道史上一つの位置を許されなければならない。その霊的
出力の大きさ、全伝道界に与えた影響力の広さは、たぶん合衆国内でも、他
に類例を見ないであろう。建物は、その創立者が生涯ささえられたみことば、
「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊
によるのである」(ゼカリヤ四・六)を、建築学的に有形化したようなもの
であった。しかし、人々が関心を持ったのは、その建物ではなかった。建物
は単に、主のすばらしいわざがなされる、その仕事場だったのだ。この建物
から、熟練工が、地上のすみずみにまで、それと同じ仕事をするために出て
行くのである。何世代にもわたって、この福音の中心地には、あらゆる教派
の著名な説教家が訪れた。大衆伝道家、一流のキリスト教教育家、第一線の
宣教師、有名な説教家などが、世界のあらゆる所から、この有名な講壇で説
教するため、あるいは、遠くロンドンや香港やブエノスアイレスで聞いた事
は全くそのとおりなのかどうかを知ろうと静かに身を潜ませて聞くために、
この建物にひきつけられてきた。
その全盛期に、彼が動き回っていた所、すなわちゴスペル・タバナクルの
中や修養会の会場にはいって来た者は、文字どおり、次のような場面を体験
したに違いない。----賛美と祈りが終わり、次はいよいよ説教の番だ。そこ
でシンプソンが前に出る。しばらくじっと立ち、おもむろに、威厳のある低
い声で聖書の個所を告げる。緊張した静けさを破るものは、説教者の声だけ
だ。彼が小さいときに受けた訓練は、彼にとって無言のたくわえとなってい
た。彼は決して大げさな態度を身につけなかったから、講壇のあたりにはい
つも、ただ聖なる空気が漂っていた。聴衆に向かうときの彼の態度は、いか
にもくつろいだ、自然な姿だった。大きな体格の、印象的で威厳のある彼の
姿は、見ただけで、さあこれから偉大な説教が始まるぞという感じを人々に
与えた。彼は、片手に開いた聖書を持ち、もう片方の手を軽く腰に当てて話
しはじめる。最初、言葉はゆっくりと出て来る。力のこもった、音域の広い、
豊かなバリトンだ。主題に熱中してくるにつれ、スピードが増し、激しい感
情の高まりとともに声も高まり、そのからだは、リズミカルに前後に揺れる。
彼の言葉という音楽に合わせて時を刻む人間のメトロノームだ。彼はゼスチ
ュアはあまり用いないが、いつもより多くからだを動かすときは、聖書を下
に置き、両手を腰に当てて、要点を強調するためにあの大きな頭を振った。
このゼスチュアの効果は非常に大きかった。彼の宣言する高遠な真理、人を
ひきつける力ある声、ほとばしり出る言葉、これらのものが皆一つになって、
非常に深い印象をかもし出したため、説教が終わり、祝祷が宣言されても、
聴衆はシーンと静まり返って、説教の呪文から解かれることができないか、
または解かれることを望まないかのようであった。
説教自体は、完全な構成の標本だった。その用語は、説教の速記録をほと
んど編集なしで公表できるほどであった。これは、半分は、「立ったまま考
えをまとめることのできる」彼の能力の結果であり、半分は、説教する前に
それを完全に書きまとめておく習慣を早くからつけておいた結果だった。
聖霊の満たしを経験したのちの彼は、一生涯、栄光に輝いたキリスト者で
あった。内住のキリストの臨在を経験することによって、文字どおり天国に
あるような気持ちだったのだ。彼の熱愛に満たされた心は、救い主ご自身に
対して、惜しみなくささげられ、限界を知らなかった。これほどまでに熱愛
にあふれた心で歌をうたい、これほどまでに魅せられた心からの思想が、神
の箱の前で踊るのは、必然的な事であった(参照サムエル下六・一四)。
シンプソンが、ほかのどの賛美歌も言い表わさない、独特の、神秘的な歌
を作りはじめたのは、そのころであったと思われる。その点ではウェスレー
は幸運であった。自分の心を捕らえてその動きを音楽にしてくれる詩人を身
近に持っていたのだから。しかしシンプソンのそばにはそのような詩人はい
なかった。自分の心の喜びを捕らえて表現してくれる仲介的な叙情詩人を持
っていなかったのだ。だから、自分で作らなければならない。そこで彼は歌
を書き、それを歌った。そして、とてもよくできたと思った。
彼の作った最初の賛美歌は、歌として書かれたのではなく、自分の説教の
結びの詩として書かれたものだった。彼は説教を、二行また四行以上の詩で
まとめ上げるのが好きだった。こうして、説教にこめられた重荷を、数行に
まとめるのである。その後、こうして作った詩を思い切って音楽にし、説教
のあとで独唱したり、または会衆一同で歌ったりすることを試みた。やがて、
この不慣れの分野にも確信が持てるようになると、自分でピアノの前にすわ
って、一本指でメロディーをつけはじめ、合唱隊の指揮者J・H・バークや
メイ・アグニュー、あるいは自分の娘マーガレットを呼んで、そのメロディ
ーを編曲するように頼んだ。彼の歌を作曲し、賛美歌のために大いに貢献し
たもうひとりの音楽家に、R・ケルソ・カーターがいた。
私自身も、ひざまずいて、調子はずれのバリトンを震わせ、いい気持ちで
シンプソンの歌をうたわないで過ごす日はほとんど一日もないことを告白す
るものである。それは、私の心のかてとなり、私の心にあるあこがれを表現
してくれる。全体的に、これほど私の心にぴったり来る歌は、他の作者の歌
には見いだせないほどである。彼の歌は、「キリスト者生涯の賛美歌集」の
中に百五十五載っているが、そのうち広く愛唱されているのは三つほどで、
クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスの集会でうたわれる
歌にしても十二を越えることはない。しかしながら、過去百年間に愛唱され
た賛美歌を全部合わせてもなお足りないほどの、激しいあこがれ、優しい愛、
輝かしい信仰、望み、礼拝、勝利などを、シンプソンは自分の歌の中にこめ
ていると、私はまじめに判断している。ほかの歌は、彼の作品とは比べるこ
とができない。シンプソンの歌には、至聖所、ケルビムの広げた翼、栄光の
雲などの味があるのだ。しかしほかの歌は、その外側にある庭と群衆のこと
を語っているにすぎない。
技術的な欠陥はあっても、シンプソンの賛美歌のうち、幾つかの歌えるも
のは、クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスが成功した原
因のうちの、力ある一要素となった。この歌は、集会に、私たちがかおりと
呼んでいる何か手で触れることのできないものを与えるのに、非常に役にた
つのだった。そのうちのあるものには、他の賛美歌にはほとんど見いだせな
い勝利の響きがある。これらは、若い男女に霊的な感動を与え、自分を捨て
させ、献身にまで至らせるために用いられてきた。滅びゆく世の泣き叫びと、
「他の羊」を思って悲しまれるイエスをうたった歌は、海外宣教のための集
会で聞かれる。そして、そのための祭壇が常に、海外宣教を志す人々であふ
れているのも、当然な事なのだ。彼らはその歌を、どんなに情熱をこめて歌
うことか! 修養会や総会などで、自己をささげ尽くした牧師や、働きに疲
れきった宣教師たちが集まり、「アライアンス賛美歌集」を歌っているのを
聞くと、何年たってもなお、私の胸には、新しい啓示として響いて来るのだ。
シンプソンの歌は、単なる賛美歌以上のものである。それは歌ではなく、
スローガンなのだ。彼らのグループにとって、その歌の持つ価値は、短い文
章の中にダイナミックな思想のかたまりを押し込め、その思想を信ずる者の
心の中で歌わせるという、その力の中にある。シンプソンは、意識していた
かどうかわからないが、傑出したスローガン作者であり、教会に奉仕するた
めに召命を受けた者の中では、最も偉大な人物だった。彼は聖書の中の言葉
や、聖書に関係ある言葉を取り上げて、それを「標語」の形にまとめ、群衆
に歌わせることができた。これらの音楽的スローガンの中に、クリスチャン
・アンド・ミッショナリー・アライアンスの教理と政策を読み取ることがで
きるであろう。(聖歌には、「ただ主を」(五二〇)、「主ひとり」(五五
四)、「み神のほのおよ」(五六六)、「主とともにあゆむ」(五八八)、
「神の子なるイエス」(五九二)、「沖へいでよ」(五九七)、「かつては
われ」(五九八)、「きのうもきょうもとわに」(六〇二)、「のばせやな
が手」(六一八)などが掲載されている)。そしてその中に、ひとりの男の
天分とその動きとが集結されているのを見るであろう。
|