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その後の二十年間にわたるゴスペル・タバナクルの驚くべき活動に関する記録には、満足すべきものが一つもないようである。少なくとも、その基礎となるべきものに関しては、なんの説明もされていない。それこそ、アルバート・B・シンプソンというひとりの男の献身と信仰を通して、正真正銘の霊的エネルギーが洪水のように外にあふれ出たときであった。それはあたかも、燃えさかる力のかたまりが、ニューヨークのまっただ中に投げ出されて、熱と光をあらゆる方向に放射しているようなものだった。伝道と海外宣教の熱は、火のように飛び散って行った。働き人が足りなくて困るということは、全くなかった。だれもが何かの奉仕を期待され、ほとんどすべての人がそれに当たった。成し遂げられた働きは、信ぜられないほど大きかった。
週日にはほとんど毎晩のように、青年たちが、幾組にも分かれて路傍伝道に出かけた。さまざまの救済事業が行われ、下層階級に落ち込んだ浮浪人の中から、何百人という見捨てられた人たちが引き上げられていった。訓練を受けた福音伝道隊は、希望のメッセージを持って、病院や刑務所を毎週訪問した。また、市内の一画に群を成してたむろしている、身を持ちくずした婦人たちを救うために、熱心な伝道がなされた。「地獄の台所」と呼ばれているほど陰惨な所に住んでいる貧しい人々のためには、無料の施薬所が開かれた。岸べにうろうろしている水夫たちのためには、特別な伝道集会を開いた。孤児院も始められた。このほか、ニューヨークという、種々雑多なものが入り混じった大都会に見いだされる、貧しい人々、苦しんでいる人々を助けるために、あらゆる努力がなされたのである。
このような多くの外的活動は、毎日曜日にタバナクルで持たれる大礼拝堂からあふれ出たものだった。説教は、たいていシンプソンが自分でしたが、時には有名な説教家をその講壇に招くこともあった。また、日曜学校には大ぜいの子どもが集まり、各クラスの働きを補足するために、毎週希望者を集めて教理問答のクラスも開かれていた。
こうした活動の一つとして、他のすべての活動にまさって重要なものに、海外宣教事業があった。これは、A・B・シンプソンの熱意の産物であった。
彼がニューヨークに来たのは、全世界伝道の仕事をするのに、より効果的な位置に自分を置くためであった。そして、まだ十三番街教会にいたころから、海外宣教のための雑誌「全世界の福音」を発刊していた。これは、北アメリカ州において発行された最初の海外宣教誌であった。そして独立後、あまり響きのよい名ではないが、「聖書、業、世界(The Word ,Work and World)」という名の、海外宣教のためのもう一つの月刊雑誌を発行しはじめた。名前はあまりよくないが、これは疑いもなく、今までにいろいろな宗教団体が発行した多くの海外宣教誌の中で、最もすばらしいものの一つである。その動きと範囲の広さとは驚くばかりで、編集者は、全世界を自分の教区としていた。どのページにも、その力強い両翼の広がりが全地をおおっていることが表れている。これほどはっきり表れたのは、たぶん初めてであろう。
A・B・シンプソンが、海外宣教の指導者として各方面の注目を集めはじめたのは、部分的にはこの雑誌を通してであるが、それより数年前の一八八三年、彼はまだ十三番街教会にいた当時すでに、宣教大会と称する新しい型の集会を始めていた。これは、数種の公開集会を最上の特色ある組織に作り上げたという意味では(すなわち、一か所で修養会、天幕集会、福音伝道運動、宣教師援助会などを、同時に生み出すことに成功したという意味では)、その最初のものであった。これらの修養会がいかに成功したかは、まもなくこの修養会が、合衆国およびカナダの多くの都市に拡大してゆき、その壇上には、世界的な著名な説教家や、宣教師の指導者級の人々を引き寄せたことからも明らかに知られる。これらは一八八七年ごろにはすでに有名になっていた。何万という人々が、これらの修養会に出席するために、北アメリカ州のこの大都会に群がり集まって来た。中でも人々をひきつけたのは、神癒の説教と、実際に病人のために祈る祈りであった。もう一つは、海外から帰国した宣教師の存在だった。当時、現実に生きて働いている宣教師はまれであったから、彼らが現れる所にはどこでも、必ず人が集まって来た。
これらの修養会の存在が重要視されてくるにつれて、当然、シンプソンの採る教理と実際的活動のすべてに対して反対するキリスト者のグループから、攻撃の火の手が上がった。彼らの攻撃は二つの点に対して、すなわち、一つは神癒の教えに対して、もう一つは海外宣教の情熱に対してであった。ある指導者たちは、彼らには十年もかからなければ集められないほどの金額を、彼が海外宣教のためにわずか十日間で集めてしまうその能力のゆえに、彼を許すことができなかった。
聖霊のバプテスマと神癒を意味する、「全き福音」あるいは「より深き生涯」という言葉で知られるようになったものに対して、指導的キリスト者が反感的な態度を示すようになると、A・B・シンプソンは、再び夢を見はじめた。彼の夢は、全世界の、キリストにあってよりよき生涯、より満足できる生涯を強く求めている、同じ心を持ったキリスト者たちの同盟に関してであった。それは、一つの団体から分かれることでもなければ、また、他の団体に対する反抗的なグループでもなく、あるいは、外部の攻撃から守ってくれる協力団体でもなかった。むしろ、それは聖徒の交わりであり、神にある更に深いものに対する飢えかわきを心にいだいている各地のキリスト者たちを一つに結び合わせる、帯となるものであった。
一八八五年、シンプソンは、ロンドンのベテシャンで開かれた、更に深い生涯に関しての修養会に出席した。その修養会から、彼は、いよいよ自分の夢を実行に移す時が来たという確信をいだいて帰って来た。それから二年後、必要な準備が完了すると、メイン州オールド・オーチャードにおける夏の修養会で、クリスチャン・アライアンス(キリスト者同盟)が正式に組織された。そして、この新しい団体に方向づけを与えるための、最も単純な形式の法規も作られた。
キリスト者同盟が誕生したその同じ修養会では、ほかにもう一つの新しいグループが生まれた。すなわち、エバンジェリカル・ミッショナリー・アライアンス(福音的宣教師同盟)がそれである。これは、シンプソンと彼の団体がそのために献身している海外宣教の任務を実行するため、更に能率のよい方法を供給するために結成されたものであった。
この二つの団体は、その後十年ばかりの間は、たとえ同じ夜に同じ室で二つの協議会が続けざまに持たれ、そのほとんどの出席者の顔ぶれが変わらなかったとしても、全く別々に運営されていた。事実、役員はたいてい同じ人々であった。書記はただ別の本を開くだけだったのである。これはたいへん混同しがちではあったが、それぞれの団体を特色づけている不一致の点がかえって魅力となり、この状態は一八九七年まで続いた。それから、更によい運営方針に向かって、重要な一歩を進めた。その年(一八九七年)、この二つの団体は正式に一体となり、それ以来分裂することはなかった。
しかし、どちらのグループも、明らかに自分たちの名称を捨てたがらなかったので、妥協案として、両方の名前をかぶせることにした。こうして、クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンス(キリスト者ならびに宣教師同盟)という、長々しい名称を持った、すばらしい団体の誕生となったのである。
しかしながら、シンプソンは、この名前がたいへん気に入ったらしく、こう言った、「この名前は私たちの運動の特徴をよく説明しています。私たちは、全世界における宣教師の働きのためのキリスト者の同盟団体なのですから」。この言葉で、名称に関する問題は解決したのだった。
クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスは、シンプソンの生涯の中であまりにも大きな部分を示しているので、彼に関して忠実な記録を得ようとするなら、その事を簡単に済ませるわけにはゆかない。
それは、「全体を統一し、効果あるものとするに必要な運営機構を持った」のびのびと自由に組織された団体であった。シンプソンは、自分が始めたこの団体を、三十年間指導し続け、その間、片ときと言えども、それが結成された目的を忘れるようなことはなかった。自分だけでなく、団体自身にも、絶えず覚えさせ続けた。いつも、どこにいても、彼はその著書を通し、または説教を通して、この目的を訴え続けた。
「それは、『きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない』主の全き御姿を掲げ続けることである。神の飢えた子らを、霊と魂とからだのための祝福と特権を完全に相続するように導くことである。故国あるいは異教の国で、まだ伝道されていない人々の中にあって、この時代にしなければならない無視されている仕事をするために、神の民を励まし、力づけることである」。
それから半世紀後も、この団体は本質的に、初めに作られたときと少しも変わっていない。それは全世界伝道に対して、成長し、進取的で、活気のある運動であり、しかも自分たち自身で、これが教派なのか教会なのか知らないという、地上のどこにも例のない、まことに変わったグループであった。彼らは、上品な態度ではあったががんこに、教派ではないと主張しながら、世界のあらゆるプロテスタントのグループで行われている、霊的、伝道的な義務は、一つの例外もなく行っていた。七千九百万のまだ救われていない魂に対する責任をひとりひとりが任せられ、海外宣教のために一年に四百万ドル以上の現金を請求することができ、二十の国々で百五十の国語によって福音を伝え続け、その聖書学校からは、海外で働くためによく訓練された賜物のある宣教師の卵を年ごとに多く送り出しているとは、なんとすばらしいグループであることか! そして、彼らのことを最もよく言い表している聖書の言葉はこれであろう、「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」(第二コリント五・十四)。
海外および国内での伝道のために、特別な働き人を訓練しなければならないので、彼らは早くから聖書学校を設立していた。この学校は、名前も場所もいろいろと変わったが、一八八三年以来続けられ、最後には、ニューヨーク市の北方六十四キロほどの所にある、ハドソン川のほとりの美しい町ナイヤックに落ち着いた。以来六十五年間、その聖書学校は栄え続け、毎年、海外および国内の伝道に、大ぜいの働き人を送り出している。
このほか、シンプソンの肉体のいやしに関する教義から、一つの計画が起草された。彼は、病気のため失意の中にある人々が、同情に満ちたふんい気を見いだし、肉体の苦しみから神が救出して下さるという待ち望みの信仰を持つことができるような、静かな場所が必要だと思った。この重荷があまりにも大きかったので、彼はついに、自分の家をこの目的に当てることにした。
「祈りと神癒の家」と呼ばれたこの事業は、それからいろいろな場所に移動したのち、名前も「ベラカ」(「祝福」の意、歴代下二〇・二六)と改められて、ナイヤックに最後的に落ち着いた。その後、長年にわたってこの家は、多くの悩める人々に、まれなる祝福を与える場所となったのである。
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